阪神大震災のころ


このたびの震災に対して、何ができるかわからないですが、
いちおうの阪神大震災の被災者だったので、そのころの話でも書いてみます。


当時は兵庫県伊丹市に住んでいたので、被災しました。
とはいえ、自宅では、就寝中ということもあり、
落ちてきた文学全集から、掛け布団が守ってくれました。
貧乏だったので、ボロい長屋住まいだったのですが、
幸い、家屋倒壊はありませんでした。
(その3ヵ月後に不審火で焼け出されてしまうのですが。)


自宅では、母親と二人でした。
(弟は下宿)
地震の後、電気、ガス、水道が全部止まったため、
情報を取りに、クルマのラジオを聴きにいきました。
そこで概要を知ることができました。


卒論提出の2日前、ライブの5日前(出演予定でした)だったかと記憶しています。
当然卒論は延期ですね。
当日のうちに尼崎のライブハウスに行って状況を聞きましたが、
照明が落ちてしまって無理、とのことでした。
ライブハウスのオーディションが受かってオファーが来て、はじめてのライブだったのに。


電気は数時間のうちに復旧しました。
テレビで状況を知ることができました。
大学生のくせにクルマ持ちなのが幸いし、物資を運ぶこともできました。
幸か不幸か、淀川を渡ると、いつもどおりの大阪がそこにはありました。
大して混雑に巻き込まれずに大阪に出ることができたため、
物資の入手は非常に容易でした。


一方、西への移動は大変でした。
大学は神戸だったのですが、当然幹線道路である国道2号線、43号線は大渋滞。
鉄道も動いていません。
弟の原チャリを借りて大学に行ったり、
(生まれて初めて原付に乗った。中型免許を持っていたので原付に乗る機会がなかった)
少しでも混雑を避けようと、夜中にクルマを出して寮住まいの友人の家財の搬出を手伝ったり。
(それでも普段1時間以内でいけるところが4時間かかりました)


足りない単位の履修も、試験ができるわけでなく、
レポート用紙1枚の提出で単位がもらえたりとか。


電気は上記のとおりすぐに復旧したし、
ガスはプロパンなので止まりもしませんでしたが、
困ったのは水です。
それでも、ボロ長屋が幸いしていわゆるボットン便所だったため、
「流せない」問題は回避できていました。
(当然汲み取ってくれなければ溜まるわけですが....)


水道は、数日中には、伊丹市の南部では復旧していたため、
親の会社まで、クルマにポリタンクを積んで水をもらいに行っていました。


あと、問題は風呂。
水道の復旧までに、試験的に流される、赤錆まじりの水を風呂に溜めて
それを沸かしてました。
(給湯式ならこんなこともできませんでした。貧乏万歳;;)
それができないときは、友人宅を回って風呂を借りてました。
(クルマがあるからできたこと)


水道が復旧したのは、震災から3週間後でした。


ですが、
クルマ持ちであること以外は貧乏暮らしだったのが、
かえって不便をさほど感じなかったというのはあるかもしれません。


ちなみに、震災後にも、西宮まで、高校入試の家庭教師に行っていました。
これも、クルマがあるから行けたことです。
ちなみに女子中学生でしたが、ゼミ教官の紹介でしたからね...
(一応ゼミ幹やってたもので)


以上回想終わり。
うーん、我ながら役に立たない...


今回の震災と大きく違う点は、
被災範囲が非常に広いことです。
被災地の中心である神戸市からでも、
普通の生活のできる大阪まで、健常者なら2日がんばって歩けばたどり着けます。
(気合いれれば一日でも。自転車があれば余裕。少なくとも灘区までは道が生きてたからね)


現在、被災地にいる方は、被災地域の外に出ることがとても困難なはずです。


逆に、当時は携帯電話が普及していない時代でしたので、情報が不足していました。
今は、連絡が非常にとりやすくなっていますし、マスコミに頼らない情報疎通ができます。
GPSで位置情報を貼ってツィートとかすれば、孤立地であっても助けを呼びやすそうです。
ITのすばらしい面のひとつだと思います。


情報で、人が生きる時代になったのだと、改めて思います。
がんばれ。