AdobeとAppleのビジネス上の対立じゃないの?

http://pc.watch.impress.co.jp/docs/column/config/20100507_365637.html


読み手の機器にあわせて、レイアウトやフォントを自由に変更したい、という
スタイルシートが流行りだしたときと同じことをがんばって主張している話。


それをやりたくない人がいるから、レイアウトやフォントを
変更できない手法を取りたがるひとがいる、というのがひとつ。
デザイナーは、そういった人種が多い。
彼らは、自分がおもったそのとおりに他人に見えることにこだわる。
それが彼らの仕事だと考えているからだ。
自らの考えた要素の一部が抜き出され、かたちをかえて人々の目に触れることを
ものすごく嫌がる。


デザイナーも、多くの場合は商売だから、
クライアントとの間で、制作物について調整や交渉が行われ、
必ずしも自らの希望に沿わないことも多いだろう。
しかし、それはクライアントの交渉の結果、仕事として納得したものであって、
自分の作り上げたものが自らのコントロールを離れて
改変されることを認める、ということとは異なる。


著作権などでは、法的手段や社会契約によって、その改変を制限できるが、
それをシステムによって縛ってしまう手法が、
タイトルフォントの画像化であったり、テキストデータのコピペのできないpdfであったり、
Flash化であったりする。


いち読み手として、機器にあわせてコンテンツとデザインを分離して
扱えるようにしてほしい、という希望を主張することは理解できるが、
それは作り手に強要されるものでもないし、そうあるべきという原理論でもない。
作り手が、「そっちのほうがよさそうだ」という選択の結果になるのが
いい感じの世の中の仕組みに整合するんじゃないかなぁ。


作り手が、コンテンツとプラットフォームを分割して制作したい、という
インセンティブを、どこに持たせることができるのか、ということを
考えることが重要なんじゃないかな、と思う。


で、そこでAdobeに「そういう制作がやりやすいツールを作るべきだ」と
いうのはおかしいよなぁ。
Adobeの顧客は、すくなくとも直接的には、クリエイターであって読み手じゃないから。


だから、この問題に対する回答は、
「デザインやレイアウトの同一性にこだわらないクリエイターを新たに生み出すこと」と、
「上記のクリエイターを支援する環境を整備すること」で
従前のクリエイターを市場的に不要にする、もしくは彼らと市場的に競争関係に置くことだろう。


つまるところ、それはYoutubeであったり、ニコ動であったり、初音ミクであったりするわけで。
もちおん、iPhoneのアプリも、この同一線上にある。


Appleは、AdobeGoogleのどっちもにケンカ売ってるから、
これを全部手元でやらんといかんのが大変だろうけどね。