夢を語る行為は実現コストを引き上げる


「ぼくの目標」「わたしの目標」「会議の目的」「会社の目標到達点」と
いったものは、つまるところ、主体が欲望しているものである。


ピンポイントでマーケティングを行うことが可能な状態であるならば、
この情報は、売り手にとって無防備にしてとてもおいしいものとなる。


その目標が容易に入手できないものであるが提供可能なものである場合、
その価格をいくらでも釣り上げることが可能だ。
だって、それらの主体の最終目標であったり一生を賭けて追い求めるものだからね。


夢そのものを公表しないように気をつけていたとしても、
この記事にあるように、夢のあと一歩のところの障害が発生した場合、
その障害を取り除けることに、金で済むなら主体はいくらでも出すだろう。


これはとても危険だ。
逆に、たとえば共同体内での合意形成の場で、
「これが俺達の共通の目標だ」といったものを合意してしまった場合、
あと一歩のところで、
「おまえがここで死ぬ気になってやってくれればすべてがうまくいくんだ。
この目標を達成することはお前にとっても目標だって言ったよな」
と犠牲を強いられることはありえる。


こういった、合意形成と、目標の開示というものは、
非常に窮屈感を感じる、イヤな空気が漂うものになる。
団体のなかで異端児的なポジションにいればなおさらだ。
仲良くしたくはないが彼の能力が必要な場合、こういった約束で縛って奴隷化することがよくある。


そもそも、目標がないとなにも出来ないというのは、普遍の原理でもなんでもない。
木をにらみながら、完成の赴くままに削っていったら、なんだかよさげなものが出来ることはある。
はじめから「阿弥陀如来を彫る」とか決めるほうが、常に良いものが生まれるか?


約束の一般化は、株式市場の一般化とともに広がったのではないだろうか。
株主は、会社に利益を約束させて奴隷のように縛り上げて利益をピンハネするからね。
そんなねばっこい資金調達のどこに魅力があるんだか。


と、うだうだ書いたところで、
記事のひとは会社の社長として成功しているわけだから、
実践者としてこの方は非常に苦労もされたし、大変すばらしい業績を遺されている。


その考えを普遍のものとして万人に適用しようとしなきゃね。