歯医者に行って実家で親のPCにNorton入れて栗ご飯を炊いた日。

[マーケティング]私見お笑い論(草稿):はかせさんよりいただいたコメントへのレスのようなもの


はかせさんが、最近の作品について、
製作としてかかわっている部分が多くないというご指摘については
当方の思い込みでした。誤解申し訳ございません。


個人の感性を押し付けているなぁ、と思えるのは、
最近のぬるぽ放送局でのコメントや、メルヘンチャンピオンシップ決勝戦での、
敗者へのコメントなどで当方が感じていることです。
敗者への思いやり、という行動が、なぜ脳内グランドスラムのときは自然に感じたのに
メルチャンであざとく感じるのかは当方でもよくわかりません。


さて、おそらく一番気にされていた点は、WBBC2010が面白くない、と
当方が記した点にあるかと存じます。


以下は、それに関連した記載になります。


こんな文章まともに書いたことがないので、
かなりとっちらかっておりますが、
恐れ多くもはかせさんよりコメントをいただいておりますので、
体裁が整うまでお待たせするわけにも行かず、
とにもかくにも書きなぐるのがブログということもあり、
以下に、稚拙ながら記載を試みるものです。


この文章は、当方の音楽やお笑いについての、好みについて記載したものであり、
音楽はこうあるべきだ、こんなお笑いはだめだ、などという定義や良し悪し、優劣を
論じるつもりはありません。


強いて言えば、どのような音楽も、その存在が否定されるべきではなく、
どのお笑いも、その存在を否定されるべきではなく、
受け手それぞれが、好きに自分の趣向でもって楽しんだり楽しまなかったりすればいい、
というのが、当方が世間に対して願うことであります。


当方は、多様性を好みます。
多様性の中から出てきた、今までに見たことも聞いたことも無い、
新たなコンテンツを見出すことを嬉しく思います。


特に、資本経済と株式市場による、市場経済が世の好みを画一化しようとするなかで、
うまく市場経済との距離を見据えながら、その影響の及ばないところで、
淘汰から免れて生まれてくる、わずかな陽だまりの中の野草の花のような
新種を見出したときの喜びは、なににも換え難いものと考えます。


市場経済の負け組として社会のマージナルに追いやられようとしている自分が、
それでも死ぬまでに作れるかもしれないあと何曲かが、
そういったものであったならば、また嬉しいかもしれません。


そして、世界から多様性を排除しようとするものは嫌います。
市場経済が世の中からしばらくはなくならないだろうとは思いますが、
市場経済システムそのものについては、世の必然だと考えます。別に嫌っていません。)
それが経済活動だけでなく、人の趣味、趣向までもを制約しようとしないことを
せめて願っております。



お笑いについて


とりあえず、一通り文章を書くまでは、参考になりそうな文章をググるのは控えます。


・意外性への笑いと、安心への笑い


お笑いが狙うものは、上記の2つに分類されるのではないかと考えます。


1)意外性への笑い
意外性を生み出すためには、「こうきたらこうくるはずだ」ということを
受け手にある程度想起させる必要があります。
この、「そうなるはずだ」という次の展開と、異なる展開を提示されたことに、
「そうくるとは思わなかった、やられた」と思わせるのが、意外性の笑いです。


典型的なのは、笑い飯の漫才です。
彼らの漫才のシステムは一貫していて、
基本的には、内容ではなく「論点が」、観客の予想する展開とは
異なるところに向かっていくことにあります。
たとえば野球のネタがあります。
キャッチャーと審判に扮した二人がネタをはじめたとき、
観客は「キャッチャーが審判の不条理な判定に難癖を付けるネタだな?」と構え、
その審判の言い草とキャッチャーの意見に注目しようとします。
しかし、そこでネタになるのは、キャッチャー役のキャッチャーマスクの
外し方や、ピッチャーの投球間隔などになってしまい、
「えー、そこなんかい」と心でツッコミつつもやり取りにのめりこんで行きます。


意外性の笑いについては、
意外性を偶然に頼る、という方法もなくはないですが、
当然ながらその方法は安定しません。
それだけでなく、そこで起こった笑いを検証することが難しい、というのもあります。


笑い飯がすごいのは、
偶然に頼らずに意外性の笑いを作り上げているところにあります。


受け手は、その意外性を笑うのですが、意外だとなぜ笑うのでしょうか?


おそらく、「オレはこうくるとおもっとったのに、そうきたか、それは考え付かなかった」と
いう、ヤラレタ感の笑いなのではないかと思います。
自分がもうすこし頭が柔らかければ、その方向でボケることも予想しとったのに、という
ある種、作り手目線の笑いともいえます。
笑い飯は、受け手と勝負して勝っている、とも言えます。

笑い飯が、優勝こそしないもののM-1審査員からの評価が高いのは、
作り手目線に立ってこそのおもしろさがそこにあるからではないでしょうか?





2)安心への笑い
こちらの笑いは、当方はあまり好まない(というか笑えない)ので、
客観的な書き口になりますがご容赦を。


ドジそうなやつが、やっぱりドジるとき、笑いが起こります。
バカっぽいやつが、バカなことをやったとき、笑いが起こります。
ブサイクが振られたとき。デブが競争でビリになったとき。


それは、「そうなるべきものがそうなった」という笑いです。


ひとことで言えば、「お約束」の笑いです。


最近の、お笑い系のバラエティ番組はおそらくこのあたりが洗練されているため、
参加メンバーの中で、「こいつはこうなる」という役割が、
暗黙のうちに確定しています。
(そもそも当方はテレビをあまり見ないので、このあたりは断片的な知識からの
 推測になります。念のため)


この方向性を洗練させたものが、いわゆる「ひな壇芸人」のシステムかと思います。
話を振る役、話を盛り上げて他のメンバーに渡す役、
とんちんかんな事を言って周りにバカにされる役、
知識の引き出しみたいな役、人生経験の引き出しみたいな役、
きれいどころ、相手の話に相槌を打って場を静めない役、
などなど。


この種の笑いは、この役割を外すと面白くないようです。
ダチョウ倶楽部は、なにがどうあってもSMAPには勝っちゃいけないわけです。
ダチョウのチャレンジは報われないところに笑いがあるわけです。


笑いではありませんが、水戸黄門的ともいえます。
水戸黄門一味が負けないのは当然ですが、彼らに幕藩政治体制を批判する敵は
出てきてもらっては困るわけです。彼らの敵に正義があってはまずいわけです。
水戸黄門は、悪は倒しますが正義は倒しません。
正義の敵は別の正義、という現実は見せません。
正義一元説とでもいいましょうか。


国民に正義一元論を刷り込んじゃうようだと、中国と外交で渡り合えないのは当然ですね...



で、笑わせる側が、役割どおりのことをやるとなぜ笑えるのでしょうか。


それは、客であるところの観客が、送り手であるところの演者に対し、
客が求めるものをきちんと提供した、ということへの笑いかと予想します。
演者は客を裏切らなかったわけです。
演者は客の求めるものを提供し、客はそれに満足した。
サーバーアンドクライアントシステムです。
ここでは、演者が役割を決められているように、観客も観客という役割を担っています。
演者は、お客様を決して「負かしません」。客ですから。クライアントですから。
おもてなしの精神です。



さて、世間的に、意外性の笑いを好む人と、安心の笑いを好む人の
どちらが多いんでしょうか?
統計などを取っている訳ではないので現状では推測でしかありませんが、
(先に書いたように、この段階で、まだ参考になりそうなコンテンツを
 ググっていないもので。)
おそらく、安心の笑いを好む人のほうが多いのではないかと思います。


少なくとも、産業的には、安心の笑いを好む人が多いほうが都合は良いです。
同じことを繰り返せばいいので、創作の要素が少なくて済みます。
役割が決まっているので、中身はある程度の挿げ替えが利きます。
つまり、製造コストの削減、拡大再生産、規模の経済など、
経済上有利な要素がそろっています。


意外性の笑いは、困ったことに、そのネタが世間に周知されてしまうと、
意外性がなくなってしまう問題があります。
ある意味、賞味期限があります。


しかも、困ったことに、賞味期限を過ぎたネタは、
意外性を求める受け手が去る代わりに、安心感を求める受け手がやってくるために
表面上、それがネタとして死んだことに気づきにくいのです。


したがって、意外性の笑いは、再生産が非常に難しいです。
ネタそのものだけでなく、システムが認知されてしまうと、
それは意外性を持たなくなります。
浜田雅功が目上の芸人を殴るという行為は、それが「芸」だと認知された後は、
そこに意外性の面白さはなくなります。
殴られた芸人は、困った顔をしながらも浜田のやんちゃを広い心で許すところまで
ワンセットで芸です。そういう「役割」を与えられていますから。


安心の笑いを求めるひとは、そこで笑います。
思ったとおりの展開になったことと、浜田が怒られるという事態から逃れたことの
2重の意味の安心が受け手を包み込むからと思われます。


意外性を笑うひとは、そこでなにも反応しないか、もしくは
「どうやったら意外性が出て面白いか」を考えます。


浜田を怒ってしまうと、芸が確立する以前に戻るだけなのでいまいちだ。
帰ってしまっても、マネージャーを叱っても、吉本興業を告発しても、結局同じだ。
どうやったらおもしろいんだろう、うーん、うーん。


こういう意外性の笑いは、バラエティとの相性が悪い。
ファンタジーを持ち込めないからだ。
浜田が殴ったら相手の首取れた、とか
殴る角度が悪かったから飛距離が出なかったとか、
助走をつけるのはルール上ありなんか、とか
そういう方向には持っていけない。





WBBCについて:


前提:当方の持ちえる情報


WBBCは2006,2007,2008.2009,2010すべて視聴しています。
脳内グランドスラムはすべて聞いています。
(ラジオから脳内グランドスラムだけを切り出してiPhoneに入れてます)
グランドスラム2006も持っています。
ついでですが、熱闘メルヘン大相撲もすべて視聴しています。
残念ながら、勝ち方負け方は持っておりません。
その内容については、発刊前後でラジオで話された内容から、
それが何について書かれている本なのかをラフに知っているだけです。


2009より2010が面白くなかったとする理由(?)


前提として、当方は、意外性の笑いを好みます。


グランドスラムの表面上のルールは、その中ですでに解説されているので、
改めて触れませんが、
実は、そこでは触れられていない、本質的なルール(?)について、
直接または間接に言及しています。


・プレイヤーは、与えられたリスナーの作品を材料にして、
 打順、ネタの選択、ネタの読み方で勝負する。
・ネタの評価には、会場の雰囲気が影響する。
・そのため、「場を暖める」というステージが必要になる。
・上記の理由で、自力で場を温められるスキルを持たない選手にとって先攻は圧倒的に不利
・ネタ外でも、場のコントロール能力が重要。
 自分の出番で場を盛り上げ、相手の出番で場を盛り下げることが出来るプレイヤーが勝てる。


場のコントロール、というのがポイントになります。
ここに、「安心の笑い」の要素を加えると、こういうことが起こります。


・出場者に、勝ち役のプレイヤーと負け役のプレイヤーがあらかじめ定義される。
・安心の笑いを求める人にとって、
 勝ち役のプレイヤーが勝つことそのものが面白くなる。
 負け役のプレイヤーはネタや行動以前に、勝つことが面白くなくなる。



筋書きが見える、とはこういうことになります。


では、勝ち役と負け役をその場で決定するにはどうしたらいいのでしょうか。


・このひとはネタの読み方がうまい、という刷り込み、このひとは下手だ、という刷り込み
・このひとは場を盛り上げている、という刷り込み、この人は場を白けさせる、という刷り込み
・場の盛り上げが重要だ、という指標の提示



つまり、
「こういうことが出来る人は、うまい」→「こういうことが出来ている人は、面白い」
→「こういうことが出来ているひとのやっていることは面白いはずだ」
という空気を作っていくことになります。



こういう、視点と指標が明確な状態は、はかせの求めていたゲームのスタイルといえます。



なぜか。



はかせは「トランスベースボール」になることをいやがっていたからです。



「トランスベースボール」とは、ネタをどう評価して、どう笑ったらいいかが、
共通認識として出来上がらなくなってしまった状態を指します。


したがって、プレイヤーにとっては、「なにをやったらいいのかわからない」という
ことになる場合が多くなる、と予想されます。


そこでは、各プレイヤーが、自分の感性だけを信じてただネタを披露し、
観客が、ただ自らの感性に従ってネタを受け止めることになります。


安心の笑いを好む客が、安心のより所である、定義された場から切り離され、
「フワフワした」状態でネタを受け止める、とても危うい状態です。


でも、
意外性を求める立場からすれば、そういうカオスな場からは、
何が出てきてどういう反応になるのかという、大きな楽しみが出来ます。


ただ、
トランスベースボールになったら、面白いネタが面白くなくなるわけでは、
おそらくありません。
あまり面白くないネタが、「ルールに添っている」という視点から、
安心できる→面白いと思う、という誘導が使えないということです。
逆に、相手の手駒のどれがいつ爆発するかわからない、という
恐怖感をつねに感じることになります。
また、「実はウケるかもしれないが自分ではわからない」というネタを
どう使うかが難しくなります。


こういうところに、不確実性から生まれる意外性が期待できるのですが、
当然ながら、プレイヤーは、こんなストレス下に置かれることは
たまったものじゃないでしょう。
下手をすると、何も考えていないような相手に負けてしまう。
勝つために作戦を立て、それにしたがって行動し、
そのための練習もしたし努力もした。
それが報われないようなゲームはどうかしている。おかしい。



まとめます。


読みのうまさ、場の作り方、といった、具体的な評価基準を挙げることで、
判断を、個人の笑いの基準というあいまいで主観的なものから、
外部から見える、客観的な基準に移していくこと。
あわせて、トランスベースボールを排除すること。


その観点と絡めて、「勝ちそうなひと」「負けそうなひと」を定義づけ、
安心の笑いを求める人にとって「勝ちそうな人が勝つのが面白い」という
環境を作ったこと。



それが、意外性の笑いを好む当方には、あまり面白くなかった、ということです。



そもそも勝利のために、自らの強み、弱み、機会、脅威を認識し、
作戦を立てて、それを実行する、というのは、もはやビジネスの世界では
基本にして常識とさえ言えます。



でもね



仕事やってないときまで仕事みたいなこと見たくないんですよ。
市場経済の競争とは違うところで生まれるものが見てみたいんですよ。



そこは好みの問題です。
あらかじめ書いたとおり。



増してや、自分の好みが世間一般からずれていることは承知しているので、
意外性を求めるようなことをやってくれ、と言うつもりもありません。



危うく当方も取り違えそうになったので、
自らの誤解を解く意味でも、最後に改めて書いておきます。


はかせが、イオシスという企業を存続させるために、
安心の笑いを求めた、という見方はすべきでないと思います。


はかせは、はかせの求める笑いの方向があって、それに向けて
当方のような一般人の及びもつかない努力と試行錯誤でもって、
作品とステージを作り上げたのだと思います。
そこにプライドがあるからこそ、一介の一般人であるところの当方に対しても
わざわざコメントをいただけたのだと思います。


ただ、その笑いは、
市場経済とマスメディアから必然的に生まれるタイプの笑いと同じものだ、と
いうのが、はじめのブログ記事で当方が記したことです。



そのタイプの笑いが、当方の趣味ではないということです。