思想


80年代から起こった、テクノのムーブメントは、
未来を示していた。


その未来は、
「より高度な技術を、人々が使いこなす、すばらしい世界」だった。


しかし、テクノというのは、
ある種、頭でっかちの思想だった。


世間を知らない技術者のように、
高度な技術を、どうやって「誰もが使えるようにするか」という
視点が、まったくなかった。


技術者にとって合理的なものが、
普通の人にとってなじむものでは、普通、ない。



技術者は、


「世間の人々は、未来に向かって勉強して、
いつかは自分たちのように、難しいものを
使いこなせるスキルを身に着けるようにはずだ」


と考えていた。


なぜなら、自分たちこそが、人類の進化のベクトルの
先にいるものだと考えていたからだ。
(その意味で、「ニュータイプ」という言葉は、とてもハマる。)



しかし実際には、
人々が技術を使いこなすためには、
技術を、誰もが使えるように、噛み砕いてやる必要があった。
人々は、自分たちの未来が、技術者のようになることだ、とは
考えていなかったのだ。



90年に入り、世の中で発達したのは、科学技術ではなく、
金融と経済だった。
金融と経済の支配する世の中において、
より多く、より高く売れるものが正しいもので、
そうでないものは正しくないものだ。


バブルの崩壊というのは、経済の失敗だ、と感じられるが、
実際には、経済の失敗が世界を失速させる、という意味で、
経済が世界を支配していることを再認識させることだった。




80年代から90年代初頭にかけて、
多感な時代を過ごした人には、
テクノな思想を持ちながら、
世間とのずれを気にしつつ、
その正体がなんなのかがわからないまま、
もやもやと人生を過ごしてきたのではないだろうか。



いまの世の中は、
「金のあるバカが技術を享受できる時代」だ。


夢見ていたのは、
「技術を持つものがすべてを握れる時代」だった。


マイコンは、ほんとうの技術者にとっては、
確かに「何でも出来る機械」だ。
今でも。



そんな、
ひょっとしたらあったかもしれない、
少なくとも、誰かは夢想していた、
テクノな未来というのは、
きっとこういうものだ、というイメージは、
ひとりよがりではなくて、おそらく、ある。



そういうものを、
言葉で表すには、自分はあまりに幼稚だし、
絵で表すことはテクノの本懐ではない。
だって、今の状況は、
世間が受け入れないということを除けば、
テクノクラートには好ましい時代だから。



だから、作る。
ないものは作ればいいのだ。
それはテクノの精神。
それは技術者の精神。



自分たちは、もういい大人で、
世間にはインターネットと通販とオークションがある。
世界中から情報を検索できるし、
世界中から部品を購入できるし、
世界中に質問できるし、
世界中から仲間を探し出せるだろう。



だから、
夢想で終わってしまっているイメージを
現実のものにしてみることは、出来るはずだ。


ひょっとしたら、万が一、
自分たちが見ていた未来は、在りし日のころ、
世間にうまく伝えられていなかっただけかもしれないし。